作品展は家族の喜びの宝庫

祖父母の家を孫の美術館に

モノを大切に、作ったものも大切に

2009年2月16日

★作者に訊いても心はわからない
数ある幼稚園の行事の中で、「作品展」は地味な存在ながらも欠かせないビッグイベントである。絵や作品から、めざましく成長する子どもの心を受け止めるという、まさにレベルの高い教育活動の成果を見るものだからだろう。
しかし雑誌の取材としては辛いものがある。作っているときの様子なら、子ども達の表情や言葉に触れることができるし写真も動きがある。つまり臨場感を伝えることができる。ところが作品だけを見て記事にするのは非常にむずかしい。その奥に潜む子どもの心に共感できる能力を、とうに失っているからだ。
それでも「おや?」と思う作品に出会うと、担任の先生の協力も得て、その作者が登場するのを待つ。根気はいるが、「どんな子が現れるか」という楽しみの方が大きい。しかし作者に出会ったところで、雄弁に語ってくれるわけではない。
「作ったときに考えたこと? ウ~ン、そんなの覚えてない」と言われるのがオチだ。代わりに母親や兄弟が代弁してくれることもあるが、本人には違和感があるようで照れくさそうに逃げて行ってしまう。
でも、逃げていく作者の表情を知ったことで、作品は一段と輝きを増す。親、祖父母、近所のオジサン、友達の母親が、牛乳パックで作った船を見て、「わあ、カッコいい!」と声を上げるのは、作者の素顔をよく知っているからだ。船ではなくケーキだと知ると、「本当だ、美味しそう!」とまた声を上げる。こんな嬉しい美術展はほかにはないだろう。だから記事にならないことを覚悟で、飽きずに作品展に出かけていく。子ども達と家族の静かな喜びに包まれた後のビールが美味しいからだ。
そんな記者の気持ちを知ってか、最近は作品のそばに写真や説明が添えられることが一般的になった。デジカメが普及したおかげだ。多くは作品づくりに取り組む子ども達の様子だが、その中に思案顔や満面の笑顔を見つけることができる。カメラを持つ先生に向けられたメッセージといえる。「これは担任の先生にだけしか撮れない写真だな」とただただ感心するばかりだ。
★捨てられるものに新たな命を
子ども達の作品の主要材料は、牛乳パック、菓子箱、包装紙、ラップ芯、ラーメンカップ、ペットボトル、カマボコ板……。それぞれの家庭から出る廃棄物である。子どものいない家庭ならそのまま資源回収あるいはゴミになるものだが、それが幼稚園では輝く作品となって命を永らえる。何でも簡単に捨てないで、モノを大事にしようという環境教育の面でも作品展は大いに貢献していると言える。
そうは言っても、子どもが持ち帰ってくる作品をすべて各家庭で展示保管しておくのは難しいようだ。ここでもデジカメが活躍する。最近のお母さんは、子どもに作品を持たせ、それを写真に撮ってパソコンに保存する人が多くなった。撮影後は解体され、最終的に廃棄物になるわけだが、それでも子どもの成長に一役買ったという意味は大きいと言える。
しかし一抹の寂しさが残る。実際の作品に触れてみれば、写真だけでなく、そのままそっくり永久保存したいと思うのが人情だからだ。存在感はもちろん温もりが全然違う。
そこで提案である。祖父母の家に余裕があるなら、孫の作品をそっくり預けてしまうのはどうだろう。おそらくすでに実行している家族も多いと思う。
所狭しと壁に架けられた絵、天井から吊された作品は、祖父母の心を癒すだけではないだろう。成長し大人になっていく孫が、祖父母の家に遊びに来るたびに、幼稚園時代の自分に出会うことができる。もちろん当時の思いなど覚えているわけはないが、自分自身のことなのだから、きっと何か共感できるものがあると思う。見失っていたものを見つけることもできるだろう。
そんな提案を、園だより、あるいは敬老の日の折に保護者に提案してみてほしいと思う。「昔の子ども達に比べると、今の子は、絵も工作も丁寧さが足りない」とよく聞くが、そんな永久保存美術館があれば、子ども達の制作意欲も気持ちの込め方も高まるのではないだろうか。少子高齢社会の活性化策にもなるような気がする。
最後に私事で恐縮だが、私にも1ヶ月ほど前、初孫が誕生した。さっそく「この子が将来幼稚園で作る工作、描いた絵は、すべて料金着払いでわが家に送るように」と息子夫婦と約束をした。「わが家を、孫たちのメモリアル美術館にするぞ」と秘かにほくそ笑んでいる、ジジ馬鹿の今日この頃である。