★豪腕会長が見据えたみずからの使命
全設置体をカバーし教育研究を柱にした老舗の日本私立幼稚園連合会(日私幼)、学校法人立だけで組織し補助金対策や経営努力に取り組んだ全国学校法人幼稚園連合会(全法幼)、102条園を中心に組織し政策立案や政治活動に力点を置いた全国私立幼稚園連盟(全私幼)。性格も方針も違う三つの団体がひとつにまとまることはあり得ないとも思われていたが、1984(昭59)年4月、統合新組織として全日本私立幼稚園連合会(全日私幼連)が発足した。26年前のことである。
旗を振ったのは全法幼の人見楠郎会長(東京都・昭和女子大附属昭和幼稚園)だった。1981年暮れ、20年にわたって会長を続けた青柳義智代氏(東京都・宝仙学園幼稚園)の後継として人見氏待望の声が上がった。それは幼児教育の重要性をアピールし私立幼稚園の位置づけを高めたいとの願いからだった。
当時の人見氏は日本私立小学校連合会会長、日本私立大学振興協会会長であり、1975(昭50)年の私学振興助成法制定の折には日本私立中学高校連合会のリーダーとして獅子奮迅の活躍をした。日本を代表する私学人10傑の1人として知られていたのである。そんな人がトップになってくれれば、私立幼稚園に対する世間の見方がもっと大きく変わるかも知れないと思ったからだ。
「できれば私の後、幼稚園の会長を引き受けてほしい。大事な幼児教育だ。真剣に考えてみてくれ」と声をかけたのは私学界の大先輩にあたる青柳氏だったが、「まさかあの人見先生が幼稚園の会長にまで下りてきてくれることはないだろう」というのが多くの人の見方だった。
しかし人見氏は「戦後の動乱期、私学教育の復興のため先輩方には大変な苦労をかけた。その先輩からの要請には応えるのが当たり前だ」と快諾した。そして細かな情報を集め、自分なりに分析した結果、「今、私立幼稚園にとって一番必要なことは三団体をひとつにまとめることだ。そうしなければ、やがてやってくる幼稚園と保育所の問題に適切に対処することができなくなる」と取り組むべきテーマをみずから設定した。
1982年5月、全法幼総会での会長就任挨拶でも「幼稚園と保育所の制度問題は必ずやってくる。それは幼稚園の存亡に関わる重大な局面になるかも知れない。そのとき私立幼稚園団体が三つに分かれて反目していたのでは話にならない。一枚岩で結束して事に当たらなければ幼稚園教育の未来は閉ざされる。新しい統合組織をつくる話し合いをすぐに始めたい。私が率先して行う。同じ志の仲間として、どうか協力してほしい」と呼びかけた。
その言葉に「豪腕の人見先生でも、そんなことが本当にできるだろうか」と思いつつも、「しかし自分達が頼んで会長になってもらった人だ。信じてついて行こう」と私立幼稚園の心が動いた。
★心をひとつに知恵と力を出し合おう
さっそく人見氏は日私幼、全私幼の幹部に呼びかけると同時に、全国を駆け回って各地のリーダーと話し合いを持った。その情熱と行動力に押されて、三団体代表者による協議の場が設けられた。もちろんそこには異論が多々あり、火花散る論争が繰り返された。
「やっぱりこの三団体が統合するのは無理な話だ」と諦めかける場面も何度かあったが、そのたびに人見氏は「幼稚園と保育所をめぐる深刻な問題が必ずやってくる。そのときのために1日でも早く一本化して私立幼稚園の気持ちをまとめていくことが必要だ。ひとつになっていれば保育所団体より強い力を発揮することができる。幼稚園教育の未来のための大事な決断です」と粘り強く説得し、ようやく全日私幼連は出航した。人見楠郎、68歳の春だった。
その後の全日私幼連は歴代会長の指導力によって、教育基本法改正、学校教育法改正の中で幼稚園教育の位置づけを高めることができ、補助金の増額を果たしてきた。そこには幼児教育の重要性に対する時代的要請もあったが、私立幼稚園の組織がひとつにまとまっている基盤があればこそのことでもあった。
そして今、政権交代によって「幼保一体化・こども園構想」という大きな問題に直面することになった。人見氏が予見していた事態がついにやってきたのである。今こそ私幼統合に懸けた人見楠郎氏の情熱を思い出し、その実現に努力した多くの仲間の苦労を振り返り、私立幼稚園の結束した力を発揮すべき時である。
組織運営のあり方についてはいろいろな意見もあるだろうが、それでも私幼人としての心はひとつにして、知恵と力を惜しみなく出し合い、この難局を乗り越えてもらいたい。当時の状況を知る人間の1人として、それを切に願ってやまない。
幼稚園情報センター・片岡 進